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FHSW 0.4には、個性豊かなマップ達が追加されます!
今回はその一部をご紹介しましょう。



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Desert Hill-1942

ドイツ vs イギリス

北アフリカ戦線をイメージした架空マップです。
丘を挟んでイギリス軍とドイツ軍が対峙しています。
このマップは少々特殊なシステムで、攻撃側と守備側を明白に分けるため守備側には一部の乗り物しかスポーンしません。
攻撃側と守備側の入れ替えが起きるのは、攻撃側が2本あるうちの片方の旗を取得しもう片方の旗を白旗にした際に起きます。
現在の守備を知りたい場合はミニマップの丘の中央に表示されますので確認できます。

day2-1943

複雑なシステムを廃し丘に籠もるイギリス軍をドイツ軍が挟み撃ちするマップです。
このマップでは砂嵐が発生するのでそれに紛れて相手の裏を取れるかもしれません。
イギリス軍は旗を全部失うと南に戦車隊が出現します。
北にはSASの部隊が定期的に援軍に現れます。

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Created by Ltllkf


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KURSK:PakFront-1943

ドイツ vs ソ連

第三次ハリコフ戦の結果、クスルクを中心としたソ連側の突出部が形成されました。
この突出部への攻撃が予想される為ソビエト側は
8層、総延長10000km以上とも言われる縦深防御陣地を作りドイツ軍を待ち構えていました。

クルスクパックフロントではこの縦深防御陣地をイメージして、作られています。
従来の陣地とは違い、島嶼状陣地と呼ばれる陣地が作られました
これにより、キルゾーンが形成されます、
従来の陣地では前面への攻撃しか行えませんでしたが、
キルゾーンへ進入した敵の側面への攻撃が可能となり、
強力な前面装甲を備えた、ドイツのアニマル軍団を無力化する事ができます。

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参考図書
歴史群像アーカイブ vol 2
歴史群像アーカイブ vol 3
PANZER 1999年 4月
PANZER 2000年 9月

Created by Yochita


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Battle of Gela-1943

イタリア vs アメリカ

ハスキー作戦で米軍が上陸したシチリア島南部のコムーネである。
ここを守っていたイタリア軍リヴォルノ歩兵師団はフランス軍から鹵獲した
ルノーR35軽戦車や対戦車砲、野砲、迫撃砲などを使い上陸した米軍相手に奮戦したという。
しかし連合軍の艦砲射撃は凄まじくリヴォルノ歩兵師団は壊滅する。
この戦闘にヘルマンゲーリング装甲師団も参加して米軍を苦しめている。
なおこの時期にはマッキ社のMC.205ベルトロがデビューしてP-38やP40などの連合軍機相手に善戦している。

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Created by Kyan


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Ilomantsi-1944

フィンランド vs ソ連

*戦いの背景

イロマンツィの戦いとは、継続戦争の末期(1944年7月26日から同年8月13日)にフィンランド東部の北カレリア地域のイロマンツィという小さな町で発生した戦闘です。
イロマンツィはフィンランドとソ連との国境線付近にあり、幅40km、奥行き30kmの範囲で戦闘が発生しました。
ソ連がフィンランドに対して行った主な侵攻作戦の最後がイロマンツィの戦いであり、
ソ連はこの戦いの敗北によってフィンランドにおける全ての攻撃を停止しました。


まず最初に行動を起こしたのはソ連でした。
2個のソ連軍師団がイロマンツィに向かって前進を開始したのです。
ソ連は直ちに全ての攻撃作戦を開始し、フィンランドの防衛線を突破し、新たな突破口を作るというソ連軍の最後の試みが行われたのです。
攻撃作戦を開始した当初は順調に攻撃作戦を成功させ、この作戦の成功はスターリンに良い報告を届けました。
最終的に、ソ連軍は1944年7月21日にフィンランドとの国境線付近まで到達することができたのですが、
この作戦の成功は短命に終わってしまうのでした。
短命で一時的な勝利と引き換えに、戦いが開始した直後には師団の殆どが壊滅状態にあり、死を逃れる者は東へ東へと敗走してしまったのです。

一方のフィンランド軍はフィンランド語で"モッティ"と呼ばれる冬戦争でも使われた古典的な包囲戦術を利用し、多くのソ連軍を撃破したのです。
1944年の9月上旬に休戦されるまで、攻撃を行っている2個師団のソ連軍は兵士の逃亡などにより当初の1/10の戦力まで激減していました。
イロマンツィの戦いの指揮官はフィンランドでは有名な将軍"エリッキ・ラーッパナ"の指揮下で行われました。
ラーッパナ将軍はイロマンツィに居たソ連軍に砲撃を命じ、36000発以上の砲弾を10日以内に撃ち尽くしたのです。
一方のソ連軍は、同じ時間に僅か10000発しか撃てなかったのです。
その後、フィンランド軍はソ連軍の補給線にゲリラ攻撃を仕掛け、ソ連軍は前線基地に配備されていた榴弾砲の砲弾が完全に不足してしまったのです。


*この戦いが与えた影響

フィンランドはこの戦いによって冬戦争から続く超大国との長い戦いに終止符を打ちました。
四大超大国の1つであるソビエトと比較すれば、とても小さな国であり、この国を征服することは赤子の手を捻る様に簡単な事だと思っていたソ連の思惑は
フィンランドの猛攻によって簡単に崩れ去ってしまったのです。
この戦いが終わった後、ソ連2個師団の残党はフィンランド軍による包囲から脱出し、辛うじて師団の壊滅を免れることが出来ました。
スタフカ(ソ連軍最高総司令部)は全ての攻撃の停止を命令し、フィンランドに要求していた無条件降伏を撤回し、諦める事になったのです。

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Created by KeiMummy


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KORSUN Pocket-1944

ドイツ vs ソ連

1944年1月、ドイツ南方軍集団の一部はチェルカッシーの西、ドニエプル川沿いにあるコルスンでソビエト赤軍による包囲を受けようとしていました。
南方軍司令官のマンシュタイン等による警告にも関わらず、ヒトラーは部隊の撤退を許しませんでした。
結局、約60,000名のドイツ軍は完全に包囲されてしまい、シュテンマーマンの指揮の下脱出を試みる事となってしまいます。


同年2月、マンシュタインは強力なタイガー戦車・パンター戦車を含む第III装甲軍団をシュテーマン集団の救助に当たらせましたが、
赤軍の強力な反撃と、雪解けによる泥濘により進撃は困難を極めました。また、救出部隊派遣と共にJu52輸送機による補給活動も効果的に行われています。

第III装甲軍団は疲弊しつつも、Gniloy Tikich川のリシャンカに橋頭堡を確保することとなります。
包囲された部隊も赤軍による降伏勧告を拒否し、シュテンマーマンは脱出の開始を命令しました。
そして、シュテンマーマン集団は交戦を重ねながら移動し、シャンデロフカの村まで到達しました。
第III装甲軍団も攻撃を開始し、先遣隊はシュテンマーマン集団まであと7kmの距離まで達する事に成功します。
しかし、第III装甲軍団の戦力低下により脱出軍は自力で合流地点まで到達する事を余儀なくされました。
この時、包囲網は直径5kmまで狭まっており、最初は包囲からの開放の門とされていたシャンデロフカは後に「地獄の門」として知られる事になります。
赤軍は包囲したドイツ部隊に対し激しい砲撃・空爆を行い、シュテンマーマン集団を消耗させていきました。

同年2月16日、マンシュタインはヒトラーの裁可の無いまま、シュテンマーマンに脱出を許可する為に
「合い言葉『自由』。目標、リシャンカ、23時」と無線連絡します。
第III装甲軍団と脱出部隊の間には赤軍戦車部隊による防衛線が張られた239高地があり、シュテンマーマン集団の脱出の妨害を行っていました。
包囲内のドイツ部隊の脱出を知ったコーネフは新型のスターリン重戦車を含む装甲部隊、砲兵部隊に総攻撃を命じました。
脱出部隊はなんとかGniloy Tikich川に到達しましたが、混乱した将兵は既に確保されている橋があるにも関わらず、川に飛び込み溺れる事も多くありました。


約40,000名が脱出に成功し、これによりコルスンでの包囲戦は終わりました。
赤軍は当初の目標であるスターリングラード攻防戦の再現とまではいかなかなかったものの、
包囲網内のドイツ軍の殆どの装備を遺棄させた赤軍は"スチームローラー"のように更に西への進撃を続ける事となります。

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Created by 007


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Earned in Blood-1945

ドイツ vs ソ連

1945年1月、廃墟と化したポーランドはワルシャワを占領したソビエト軍は西へと進撃を続けた。
対するドイツ軍は各地で防御陣地を築き、抵抗の準備を始めていた。
この小さな"元"飛行場もその中の一つで、既に両軍は睨み合い、散発的な砲爆撃も始まっている。
豪雪と砲爆撃の中、ドイツ軍は陣地を維持できるのだろうか…?
それとも、ソビエト軍の力の前にひれ伏す事になるのだろうか…?

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Created by Yellow13


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Air Raid Alert -Kure-1945

日本 vs アメリカ

日本軍はサイパン・フィリピンの戦いで敗北を重ね、日本海軍は機能を失いつつありました。日本近海の制海権も連合軍に奪われつつあり、
連合軍は日本海軍の息の根を止めるべく、燃料不足により行動出来ない多くの艦艇が停泊している呉軍港への攻撃を決めました。


呉軍港は1945年の3月19日、7月24日、7月28日の三度に渡り、連合軍空母機動部隊による空襲を受けました。
日本側は高角砲や艦艇の対空射撃により激しく抵抗を行いましたがほぼ全ての艦が着底、航行不能などの被害を受けました。
この攻撃により、呉の工廠施設も致命的な打撃を受け、呉軍港は母港としての機能を完全に失ってしまいました。

なお、呉市街地は7月1日深夜から2日未明にかけて、サイパンの陥落によって可能になったB29による戦略爆撃を受けています。

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Created by 007


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Operation_Coronet-1946

日本 vs アメリカ

アメリカ軍は日本を完全に屈服させるためダウンフォール作戦を計画しました。
ダウンフォール作戦はオリンピック作戦とコロネット作戦の二つからなるもので、オリンピック作戦は九州南部に上陸し関東周辺の制空権を完全に掌握する作戦でした。
コロネット作戦は実際に神奈川の相模湾と千葉の九十九里に上陸し東京を含んだ関東周辺を占領するもので、予備兵力合わせて107万人の兵士と1,900機の航空機というとてつもない兵力と準備期間として3ヶ月に及ぶ砲爆撃、化学兵器や除草剤を使った兵糧攻め、核兵器の使用も検討されていました。

迎え撃つ日本軍は茨城県鹿島灘、千葉県九十九里、神奈川県相模湾を米軍の上陸地と予測し防御陣地を築いていました。
しかし、日本軍は米軍の主戦力は九十九里に上陸するだろうと予測していましたが、実際米軍は相模湾を重視していました。
このマップでは主戦戦となる予定だった相模湾の少し東の海岸を再現しています。
陸沿いに横須賀へ進行する米軍との戦いになります。
この地域は山がちな地形で古来から攻めにくいとされ鎌倉幕府が作られるに至っています。
この地域を守備する第五十三軍は縦深の陣地で米軍の足を止めそこに戦車隊を投入し殲滅するという構想を持っていました。

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Created by Ltllkf






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